2012年3月17日土曜日
カプロンの物語
Story of "Roger Capron Vol 2"
バロリスの EXISTENTIALISSES
バロリスには、カプロンとピコー、そこにデルバルとポルタニエ(Portanier)が加わり、その後コスタンダ(Kostanda)やバランタン(Valentin)が戦争直後に加わります。アンドレ・ボー(Andr_ Baud)とスザンヌ・ラミエもバロリスに移住していました。スザンヌ・ラミエにいたっては、ピカソに陶器への興味をもってもらうことはバロリスの小さな村にとって大きな利益をもたらすだろう、という考えを持つ以前にバロリスに定着していた。とても長い間続いた料理用陶器生産の伝統が衰退に向かっていたバロリスにこれらの陶芸家たちが非常に用意周到にやってきたのです。
これらの移住者は、20世紀の初頭にイタリアより労働者達が移り住んできた時のような農民ではなく大都会の都会人、また彼らはクレマン・マシエ(Cl_ment Massier)が言うところの「陶芸家」(セラミスト ダール)ではなかった。彼らは、美術大学を卒業した「芸術家」達でした。つまり現代絵画や現代彫刻の実験的な試みを楽々とこなす者達だったのです。彼らの作るものは、地方の伝統工芸の様に実用的なものではない。彼らは家庭の主婦向けの物を作らない代わりに、当時コートダジュール沿いに広く住み着いていた数多くのフランス流アール・ド・ビーブル(生きる作法)の愛好者達向けの作品を発表するのである。彼らは快楽主義で、顧客のアール・ド・ビーブル愛好者達と同様に、海や山でレジャーを楽しみ、パーティーを開きます。そして時として、「キリギリスというよりは蟻」的なライフスタイルの小さな村の住民達にショックを与えてしまう。住民達はパリの新聞の大見出しでサンジェルマンデプレの新文化人達をそう呼んだように、これらの新顔をexistentialissesと読んだ。(訳注:exsitentialistesのもじり。実存主義もどきの意味か?)
1948年にピカソがバロリスにアトリエを構えると、偉大な画家の名声と画家のもとに訪れる客達の名声は、バロリスの保守主義を現代陶器に対する絶対的な熱狂に変えていきます。バロリスの小さな村の陶芸家達は皆、新しい作品の創作を試み、さまざまな形でそれぞれが見事な結果を生んだ。そして多くのアトリエが、アトリエ・マドゥラのように成功したいと考えバロリスで陶器の創作をしてもらおうといくらか名のとおった芸術家を呼び寄せようとしました。芸術家達が集まって開いていたパーティーはその土地の祭りに格上げされ、バロリスの小さな村役場では豪華な結婚式が行われるようになった。そしてピカソに敬意を表して記念の闘牛も開催された。N_roliumの展覧会はだんだん大規模になり観客数も増大しました。1946年に初めて開催されたときは地方イベントでしかなかったのに、1956年には国家的スケールの大ニュースになり、パリマッチのような雑誌にも記事が掲載されます。
アトリエの発展
1952年、十分経験を積んだカプロンは、ロベール・ピコーの例の倣い、卸売り業者と取引をするのをやめる決断をする。息子が自ら選んだ仕事の可能性を見定めたカプロンの父は、廃用にされた調理用陶器工場を息子に与えます。その工場は広々としていたが荒れ果ててました。投資金額は莫大ではなかったが、カプロンに負担は大きく年齢も30歳になり、採算をとらなくてはならないと考えた。まず最初にろくろ職人フェリックス・ラギトラ(Felix Laguitola) を雇い入れ、その直後、二人の人間が加わります。1953年の初めには小工場には七人が働いていた。その年にバロリスにジャコット・ユバン(Jacotte HUBIN)がナントから母親に連れられてやって来ました。
美術大学を卒業したての彼女が実習生として志願してきたのである。カプロンは今だから告白するのだが、彼女の履歴書など全く見ず、その日彼の目の前に現れた綺麗な女性の日に焼けた脚にみとれていた。
1955年、カプロンはジャコットと再婚します。彼女の両親は、娘が「芸術家」のところに嫁ぐのを心配して3年間様子をみる期間を経たのだが、結婚式はサントロペスで行われ大変思い出深いものだった。ハネムーンはエクサンプロバンスに行き、彼の友人ジョルジュ・ジューヴ宅を訪問しました。
カプロンはいくつかの型に限定して作品を製作。ランプの脚、冷菓用セット、花瓶などが生産されます。この中のいくつかは、例えば「パジャマ」と名付けられた縦縞柄の作品などは定番商品となった。これらの作品は工場内のショップで通常販売され、1955年ビオ(BIOT)にオープンしたブティックにも置かれました。特に1953年以降は、パリの化学会館で開催されるフランス陶芸会議所主催の見本市にも出展して、定期的な販売を図ります。この見本市は年に2回開かれるのだが、1月の見本市で注文を請けた商品は春のイースター祭に出荷されなくてはならず、9月に開かれる見本市の分はクリスマスに出荷されなくてはならない。このようにしてカプロンは、ギフト商品、およびその時期に合ったしかるべきテーブルウェアを供給する構造を開発したのだった。実際、1950年代には、一定規模以上の都市には、一軒またはそれ以上の陶器専門店やテーブルウェア専門店がありました。人々がブランドに集中することはまだなく、徐々に生まれ出る大規模な流通網は食料品に限られ、いくつもある陶芸の見本市は後になってそれぞれ美術作品展となっていったのです。それらの見本市を通して、これら専門店のオーナー達は独占販売権や、納品期限や新商品入荷の期限の保証を獲得しょうとやっきになった。この流れのために注文で身動きがとれなくなっていたカプロンは、工場の生産計画を整えることにしました。そしてそれ以来、各作品はデザインキャンペーンにのっとって型取りされたり色づけされるようになった。それは、釉薬職人達が、「敷石」や「縞模様」シリーズを様々な型で次々に生産するのだが作品にはまずサインを入れ、次に納品月を示す一文字と、オーダー番号を入れる。そうしたことで、作品を買ったクライエントを特定でき、キャンペーンが終わる前に再注文を請けることができるわけだ。また、カプロンは生産スピードを速めるためにパラフィンの技術を使い、作品のエナメル地は漬け込みで行う。 −ほとんどの場合、この時期以降は白いエナメル地となる—かくしてカプロンは、その時代から感じ取ったことを自分なりの考えに置き換えることで、どんどん増える注文にも答えることができるようになり、(賢くもデザインキャンペーンを採用することにより)毎年デザインを一新することができるようになる。可能な限り広く注文を供給する必要性を確信し、彼は立体の上に模様を型押したり、型を使って複数の立体を作るなど色々な技術を実験的に使ってみた。1957年、工場は40人の労働者を抱え、外国からの注文もくるようになります。ヨーロッパのバイヤーだけでなく、ニューヨークの高級店、サックス・フィフス・アベニューからの定期的な注文もあった。この店のために、カプロンはあらゆる種類の酒瓶の開発までしました。パリの大手デパートも黙ってはいない。例えば、ギャラリーラファイエットはバイヤー達を窯出しの機会に送り込み、もっとも完成度の高い作品を選び買い付けていた。1957年頃から類似品が市場に出回る様になる。特に、当時エットーレ・ソトゥサス(Ettore SOTTSASS)の陶芸を作っていたイタリアのビトッシ(BITOSSI)社は、カプロン作品のフォルムや色調や技術を模倣した。
この活気に満ち、実りの多い時代にもかかわらず、カプロンは自分にとってもっと重要な、そして商業的でない展覧会に出展できるような、より個人的な作品づくりを発展させることができなかったことを悔やんでいる。1954年、ミラノのトリエンナーレでは金賞を、1955年、カンヌでのヨーロッパ陶器国際展覧会では銀賞を、1958年、ブリュッセルでの建築用陶器展覧会ではまたも金メダルを獲得した。カンヌ駅の壁面作品は、同時代に彼が行った芸術的探求の一例である。
カプロンはなんでもできる芸術家だったので、自分の作品の広告ツールまでもデザインした。活版印刷と文字デザインの技術をを使用し、彼は50年代の画風を完璧にものにしていたのです。その結果、カタログの表紙は、ソール・バス(Saul BASS)映画のクレジットタイトルやポスターを彷彿させるものとなった。また、ネガ・ポジのテクニックは、その時代の雑誌の飾り頭文字を思い起こさせた。新年のカードはユーモアたっぷりに、家庭用器具製造業の見本市の広告を思わせるようなデザインでした。
カプロンの友人となったピカソの個性は、カプロンに強い影響を与え続け、カプロンは、師であるピカソと共に古代ギリシャ陶器の特徴を強く示すスタイルを実現した。カプロンは、ひとつの物語を皿の上で語るという空間性を巧みに操ることで、ギリシャ神話の数々の場面をテーマに取り入れます。
オセアニア文化からは、入れ墨の幾何学スタイルと、儀式の際に用いるオブジェの装飾法を借り、いくつかの花瓶の白いエナメル地の上にそれを施した。
アフリカ美術にはそれほど引き込まれなかったものの、エナメルを施したり、墨汁で古色を出した驚くべきマスクシリーズの題材や、傷をつけて装飾するスタイルの花瓶は、アフリカ美術からそのアイディアを引き出したのである。装飾パネル様のタイル製作を手がけるようになって直ぐエナメル仕上げの大きさと色の違う同じモチーフを連続して取り入れたCAPRONはタイルを天板に施したサイドテーブルなど小さめの家具製作を始めます。リビング用のサイドテーブル、ガーデンテーブル同様に比較的小さめの装飾パネルも製作し始める。1958年Canneの海辺に有る駅の300㎡以上の巨大なフレスコ画も手がける事に。1957年フレスコ画の準備をしている時に彼は言った。「陶芸作家の作品には場所を埋める物だけじゃない。「場所を作る物だって有る」この作品の成功によりセラミックにおける新しい出発点を与えてくれた。CAPRONは少しずつ花瓶等の生産ラインを落として、デパートの贈答用の展開も減らします。業者に卸すのは極端に減らした。CAPRON自身の一般顧客、多くは地方の医者の奥さん等上客は残して。それにより経営上のキャパはとても下がった。しかし、62−63年建築方面でとても大量なまとまった注文が有り問題は無かった。Bibelots※ホテル
CAPRONは新しい市場を見つけない限り会社の成長は有り得ないと理解していました。建築方面の可能性を追求していくのは大変気に入っていたし、店舗販売には企業の大きな未来など期待ができなかった。だから色々な組み合わせの効くモチーフのタイルを作り出した。1959年、タイル「NAVETTE」が生まれます。Plan春eは1965年、Hebier Provenceは1963年、Garigneは1971年に発表する。この時代のCAPRONのアトリエのカタログには、25種類以上のタイルのモデルが載っていた。60年代に入り、パンの屋の店先、上流階級の内装、この時代の受注は数え切れない。多くのバロリスの陶芸家はカプロンの見本用の製作に参加し始める。この頃Jean−Dervalもカプロンとコラボレーションをして作品を発表していました。1968年、Saint−Tropez のByblosホテルの作品はカプロンの会社をすさぶった。
その時使った素材Le Gr峻「_器」にエナメル付けしたものを中庭のダンスホールに使用。バロリスのたった一人のLe Gr峻のスペシャリスト、Alexandre KOSTANDに相談した。この素材は硬く、光り、多孔性陶器(マジョリカ陶器など)と比べても大変丈夫。この素材に引かれていく。全面的にセラミック建築に移行していきます。会社も再構成しなおし、彼は陶芸美術展示会の参加を決定的に止めます。1965年、製作は建材が中心になり1969年より家具見本市に参加。建築装飾に電撃的な成功を遂げた。Louis CARRE、Parisの大手のタイル卸業者はCAPRONに取引を提案してた。そして彼等と一緒に配給網を開発していったのです。CAPRONの工場では注文を十分に捌ききれなかったので、より多くの人を使い工場を大きくする方向に動いていった。1973年、彼は150人の労働者を使い、7人の代表と7部門を作り上げた。同年、以前の卸業者の沢山の要望に答える為にLe Gr峻を素材に以前のようなランプの足やタバコ入れ、古いテーマの太陽も生産を再開。
CAPRONは本当の意味で企業の代表になっていった。市場を考え、目標に向かって投資を行った。バロリスの雇用開発も行った。シンポジウムに参加したり、パートナー会社の会議にも出席した。顧客のための新作の展示会を年に二回行った。バロリスで盛大な祭りも行った。反対に、建材展示会の展示スタンドはそこまで盛り上がる事は無かったのだった。進んだ商業テクニックに対して、CAPRONは長く続く販売方法にとても自信を持っていた。彼自身が築いた顧客業者には独占権を与えます。1974年、オイルショック後、全ての部署に製造サイクルの短縮化の要請をした。同じ頃、イタリアの石材メーカーが世界の外壁市場に手強い攻撃を仕掛けてきます。時を同じくしてバロリスの陶芸団体の一つがCAPRONの会社よりも安値でGarigneの類似品をCAPRONの息のかかってない業者に販売を仕掛けます。カプロンは直ぐに類似品製造に対して法的に罰した。しかし、既に遅かった。※※競合会社や類似品の攻撃にCAPRONの会社は傾き始める。その頃、Louis CARREとも距離を置くようになる。1982年の春、CAPRONは支払停止の申し立てをせざるえなかった。工場は空になった。機械も在庫も連続的な盗難、略奪が続いた。作り上げた物が消滅していく。CAPRONはただ一人巨大な工場の中に自分を見つける。それでもまだ少しながら続く注文を彼一人ではとても引き受ける事は出来なかった。1982年の終わり。彼は作品※の引用を強制させられる。昨日のパートナーLouis CARREに経営困難の為、ブランド名の版権、製造ノウハウを受け渡さざるえなくなる。
カプロン 60歳、ゼロからの再スタート
60年代、建築に打ち込む為に陶芸としての作品作りをやめていた。それにより「Navette」や「Plan春e」見られる抽象的なジオメトリックな作風を完成することができた。オプティカルアート「錯視効果を強調した作品」棒状のタイルを※※連続して並べることによって一つの大きなモチーフになる。
1983年Louis Carr獅ヘはCAPRON に自分の会社Caroubeで中心となって製作を続けることを提案します。よってCAPRON−Coroubeと社名を変更します。社員は5人、Jacotteはそこの部長に就任。1959年、Jean-Paulも戻ってきた。彼はデパート向けに時計の文字盤部分や陶器製のカレンダーなどを製作した。そしてCAPRONは与えられたポストにも参加しなかった。むしろ相談役の様な事をしていた。Louis側はCAPRONにもう一度Louisの所有するCAPRONブランドのタイルの大量製造を願っていたが、CAPRONはLouisの要望を頑固に断っていた。そのうち80年代、CAPRONもLouisの説得に動かされ二度と作らないと決めていたタイルのデザインを開始します。しかしそんな中、今度はCarr獅ノの経営難の順番がやって来る。結果、La Soci師e Im師al によって吸収されてしまうことに。Louis Carr獅ヘは会社を去っていく。CAPRONはまたもや自分の名前であるブランド名の版権を取り戻す事が出来なかった。※※1985年イタリア企業Marazzi-Sassuolo ※※著作権の圧量が有り、CAPRONは活動は一点物だけの製作だけと制限されてしまう。反対に妻Jacotteは CAPRON−Coroubeを盛り上げ続けていた。CAPRONは磁器の上に絵付けする実験を重ねていた。販売化はされなかったがテーブルサービス用の作品を産み出していた。そして、以前から望んでいた大型家具の製作も実現。箱物の家具やイタリア式の机も有った。 ※ピカソを引用して。画家には収集するコレクターが居る。自分で描いた絵は他人の家に飾りたい - だから私は違う事を始める。※象牙の象嵌、石の代わりに白く細い陶磁器を切り抜き際立たせる為に青や金の色をつかう。※家具は家族の友人の家具職人によって木を黒く塗られて実現化した。
1989年の終り、息子Philippeの進めによって蒸された土を使って作品を作る日本の技術「楽焼」の実験を始める。最初の実験で決心を決めていた。そして楽焼の窯を素早く手に入れ装飾パネルを製作した。ほとんどの彼の作品をMarazzi社のオーナーが購入しました。その人物とは大変良い関係が保たれていたのです。オーナーは彼に上客を沢山紹介してくれました。同時期、CAPRONは70年代にBologneで出会ったDiDonatoと結び直す。彼はイタリアの陶芸家でミラノ、ローマ、パリにFraneseと言うショールームギャラリーを運営していた。ロマン時代ナポリの16~17世紀のタイルを専門としていた。DidonatoにはCAPRONの新しい試みをとても高く評価していて良いプロモーションになると考えていたのです。1991年、そこでCAPRONにプロモーションを目的とした新作の個展を提案します。個展とは口実で世間にCAPRONの認知度を上げてもらうのが狙いだった。しかし版権の問題等が残っていてビジネスとしては成立しない為、実現にはこぎつけなかった。それ以後CAPRONは方向転換をする事に。※芸術的な普及の売り出し 同様に娘Fr仕屍iqueがバロリスのSassui−Miliciギャラリーで個展を開いて新しい経験の第一歩を踏み出します。古い顧客の一人Reinholdi Harsch、彼は熱狂的なCAPRONの作品のファン。
彼はドイツのHeingen.Breme,Stuttgart,Montabaur-vestewald,そしてKircheinの地方美術館での個展を催してくれた。CambridgeはカナダのJuliance Freyギャラリーに作品を紹介します。翌年1988年、ニューヨークのギャラリーHammerにEtienne Sassi とのコラボ作品を展示。※※2000年、彼は初めて自分自身で個展を開いた。
この頃50年代が新しい物として最近のブームとなっていました。
CAPRONは徐々に丸みの有る物をデザインする様になる。全ての装飾から開放され少しずつ彫刻的作品に専念していく様になり、今まで頭の中で止まっていた(女性像、動物、HenriMoore.※Victor Bruner)テーマを具現化し始める。彼は時には記念的な作品も作った。楽焼独特のきらめくエナメルの音色を調和させたミニチュアなども製作した。彼の宇宙はそれくらい混合に占領され、彼の作品は人間とも動物とも思えない作品が多い。※現在彼のアトリエは一番初めに工場を開いた県に位置する。地元は大分発展していた。そしていつも誠実なJean-PaulとJacotte、時々訪れる研修生らによって活気あるアトリエとなる。
CAPRONはデッサンを作成して手捻りで成型し、殆どの場合Jacotteがエナメルをかけるのに対してJean-Paulは焼き加減を担当する。
80歳を過ぎても同じ様に再び成功を探しつづける美術の天才は作品を造り続けています。
個展暦
1948年 Vallauris N屍olium 2年に一度開かれるコンクール1948年から1962年参加。
1954年 Triennale de Milan ミラノで3年に一度開かれるコンクール金賞受賞
1955年 第一回ヨーロッパ国際陶芸展 カンヌ 銀賞受賞
建築セラミック ブリュッセル 金賞受賞
国際陶芸展 パリ
1966年 Vallauris N屍olium
第一回国際陶芸美術コンクール バロリス 文化省特別賞 受賞
1970年 第二回国際陶芸美術コンクール バロリス 最優秀賞、バロリス市特別賞 受賞
第三回国際陶芸美術コンクール バロリス 特別枠出品
1974年 第四回国際陶芸美術コンクール バロリス 特別枠出品
1976年 第五回国際陶芸美術コンクール バロリス 特別枠出品
第六回国際陶芸美術コンクール バロリス 特別枠出品
第七回国際陶芸美術コンクール バロリス 建築部門特別賞受賞
1984年 個展 1984年〜1992年 France バロリス
ドイツ Zuffenhansen,Heinigen,Breme
イタリア Piacenza
1991年 Farenese ギャラリー ミラノ
1993年 Sassi-Milici ギャラリー バロリス
1994年 Etienne Sassi ギャラリー パリ
バロリス美術展 ドイツ Heinigen,Breme、Stuttgart
バロリス美術展 フランス国内 ドイツ Montabaur,Vesterwald
イタリア Piacenza Zublin-Haus ギャラリー
国際陶芸美術コンクール バロリス 公認作品出点
Fur Gegemstandlische kunstギャラリーKirschein Juline ギャラリー Frey Cambridgeギャラリー(カナダ)Hammerギャラリー ニューヨーク
Gureridonギャラリー ニューヨーク
Neouギャラリー フランス人陶芸家50年代 Paris
バロリス スタイルの誕生展
Sassi-Milici ギャラリー バロリス
Hamemer ニューヨーク