2012年3月17日土曜日

カプロンの物語



Story of "Roger Capron Vol 1"


"ロジェ・カプロンと私"

アントワネット・フェイアレ



私は、ロジェ・カプロンの作品について何も知識のないまま彼と知り合いました。1986年3月のとある夕食会で、バロリスの陶芸家らと同席している時でした。その日私は、第十回国際陶芸美術コンクールの審査員を務めており、数百点の平凡な作品の中から、めったにない逸品を選び出すという、わくわくする、しかし責任の重い一日を終えた後でした。ビエンナーレの審査員をするのも、バロリスの陶芸家達と食事を共にするのも、初めてでした。食事の場でみんなはカプロンがどんな人物か説明してくれましたが、私にとっては、カプロンは一緒に話をして大笑いしあった人物としてまず記憶に残りました。それに、そう考えたのも、あながち間違いではなかったのです。
ドイツ人の審査員長が、私には味気なく感じられる面白みのないフォルムの、茶・灰色・黒などの寂しい色の陶器しか好まなかっただけに、会食は楽しいものでした。もっとも、私はパリジェンヌなので、(審査員長の好みの傾向に対して)そんなに驚きはしませんでしたけれど。というのも、1970〜1980年代での、ロワールより北方では、田舎風スタイルから逃れる事が出来ませんでした。つまり、都会の人が、オークのテーブルや、むき出しの梁や、ジュートの布製品などを使って家をしつらった戦後のインテリアスタイルと調和する、あまり手の加えられてない陶芸作品から、人々の好みは離れられなかったのです。この時代のことを現代の環境保護論者(エコロジスト)に思い出させるのはやめにしましょう!そんなことをすれば、きっとその頃の味気ないライフスタイルをよみがえらせてしまいますよ!
会食をつうじて、私は地中海の陶芸家はあけっぴろげで陽気なことに気が付きました。そして、再び彼らと出会い、彼らの作品を見つけ出そうと心に決めました。作品のいくつかに関しては、見つけるのは簡単でした。陶芸家自身が作品を持っていたからです。というのも、そのほとんどの場合、作品にはファンがつかなかったからです。その他の作品に関しては、例えばカプロンの作品は、見つけるのにもっと時間がかかりました。成功した陶芸家なので、作品が散らばっていたからです。私が初めて海近くのカンヌ駅(訳注:その外壁はカプロンの作品である)の外壁前を車で通り過ぎた時は、スピードを出していたので、何も気が付かずに通り過ぎました。だいぶ後になってから、招待されたデルバル宅で、カプロンがデルバル一家のために作ったタイルを楽しみながら見ることができました。これらのタイルは、まるで生きている人間のようでした。タイルは生きる喜びにあふれているようでした。寂しく、粗野なものが人々に好まれるという長い年月を生きのびていくには、こんなふうに人目から隠れていなくてはならなかったのでしょうか?流行とは、こんなものです…
バロリス美術館は、カプロンの芸術にはもうひとつの側面があるということを私に教えてくれました。つまり、より正式な、より「人に見せることを意識した」側面があるということを教えてくれたように思います。それは、ひとりの人物を表わすパネル作品についてです。その作品は、多面的な数々の小さなかけらから全体が成り、全面的に灰色のトーンをしています。別の審査会で、それはカプロンと同時代の陶芸家であるジャンジャック・プロロンジョー(Jean-Jacques Prolongeau)に関する博士号審査だったのですが、審査員長はこう説明したのです。
「1970年代には、公的機関からの注文には、作家は抽象的な作品を作らなくてはならなかったし、できれば、幾何学的で、あまり色彩のない作品を作らなくてはならなかった。」バロリス美術館にあるパネル作品は、多かれ少なかれこの説明の枠に入った作品です。ビエンナーレで受賞したこのパネル作品は、この時代の人々が期待する作品にあてはまります。それはつまり、カプロンが公的な芸術というものに魂を売ったということなのでしょうか?いえ、とんでもない!「芸術家の芸術」はすべて、その時代のことば、そしてその時代に生きる人々のことばを使いこなせるものです。そうしたことばを使いこなすことに成功すれば、自分の才能の厳正さにより、他の時代の人々にも好かれることでしょう。厳正さと才能。カプロンはこのふたつをありあまるほど備えています。そして、はじめから量産されることも売られることもないと決まっていたこの作品は、カプロンをいつもと全く違う分野にいざなうこととなりました。
そのパネル作品では、力強い人物が、まるでタイルから突然表れ出たかのように見え、それに対して色は、まるでそこに存在していないかのようで、他では見られない表現力があるのです。その他のカプロン作品 −テーブル、ゲリドン、ランプ、ピシェ、皿、花瓶、魚用皿、マザグラン(訳注:陶製で脚付きのコーヒーカップ)、花や鳥の装飾、チューリップ、水鳥、馬− は、私が発見してからまだ15年しかたっていません。作品を発見したときは、コレクターの人達は自分達が大好きなオブジェを目の前にして、私の真意を調べるような目で私を見るのでした。これらのオブジェは、もったいぶったところがなかったので、コレクター達は、他のコレクション作品と一緒に大切にしているとは、なかなか言い出せなかったのです。コレクターの中のひとりは私にこうも言いました。「あぁ、ここら辺のものは、マヌケなモノって呼んでますよ。」マヌケなモノ?私はびっくりして呆然としたままでした。どんな像だったかもう覚えていませんが、人物の立像で飾れた、ただ色だけが鮮やかで美しいそのピッシェが、私はこの上なく好きだったのです。当時まだ、ピエール・ストーデンメイヤー(Pierre staudenmeyer)はその著書「1950年代のフランスの陶器」を出版しておらず、 色の明るさはまだ市民権を獲得してなかったのです。その時点では、当然私はロジェ・カプロンの最近の作品をすでに知っていました。その作品は、もはや大きな手工業生産の果実ではなく、3人の小さな工房作品でした。その3人の誰も無視することはできない重要な役割がありました。空想の巨匠は着想を得て、粘土をこねます。その妻、ジャコットは色彩担当。そしてジャンポール・ボネ(Jean-Paul Bonnet)は、師匠のずっと以前からの協力者、作業のすべてに関わり、釜の温度が最も高くなる決定的瞬間に釜のふたを開けるという、恐ろしい特権を持っているのです。何故なら、今はもうカプロンは陶器を作っていないからです。彼が作っているのは、日本の楽焼からインスピレーションを得た、粘土を煙でいぶすという驚くべきテクニックを用いて作るものなのです。楽焼は、粘土を普通に形作り、それに普通に着色して釉薬をかけるのですが、釜の中の溶解が始まっているそのときに、釜のふたを開けてしまうのです。その結果、土は黒ずみ、きらめく艶をもったほんのかすかな繊細さを色に与えるのです。このテクニックの遠い源によって、かつて今までなかった程、地中海に対する愛着をカプロンが表現するようになったのかは、私にはわかりません。
平らに、あるいは丸彫りで表現されたカプロンの人物像は、変身をテーマに、それぞれほぼ同数のバリエーションがあります。それはシュールリアリズムに関連づけているのでしょうか?もしかしたらそうかもしれません。でも、私が思うには、カプロンの作品には、シュールリアリストのアンドレ・ブルトンやダリより、古代ローマの詩人オウィディウスが息づいているような気がします。それに古代文明には、人間と魚の身体を持つ人魚や、人間と鳥の身体を持つ人鳥がありましたし。カプロンの創作は、古代文明よりさらに進んでいます。彼は自分の作品の人物像を解体し、身体のひとつひとつのパーツが独立したまま、再構築します。その結果は驚くべきもの、と言うには控え目すぎるでしょう。でも、月桂樹の木に変えられてしまったギリシャ神話のダフネ自身、少々驚
いていたとは思いませんか?
かくして、ピエール・ストーデンメイヤーは、その著書を出版することによって、私達を幸せの世界へといざないます。そのことを本当に感謝してもいいと思います。幸せを好むということは、シンプルなことのように思えますが、実際はそうではありません。そこに到達するには、何かを乗り越えなくてはならないのです。その乗り越えるべき何かとは、スノビズム(上流気取りの俗物根性)、滑稽であることに対する不安、あるいは子供っぽく見られることに対する不安に通じるものなのです。下積みの時代ロジェ・カプロン、1920年9月4日、ヴァンセンヌ(Vincennes)生まれ。父は銀行の事務員だったが、キャリアの最期で銀行の代表となることができた。母は祖母と同じ様にべべ・ジュモー(Beb Jummeau)社の製造工場に勤めていた。彼女はそこで装飾担当者として、話題の人形の睫毛を筆で描く作業をしていた。彼らの出会いは第一次世界大戦中、いつも逃げ込む防空壕でのことだった。この父と母のもとで、ロジェは一人っ子として生まれた。1926年、カプロン一家はモンモランシー(Montmorency)南部、アンギアン・レ・バン(Enghien-Les-Bains)のそばに引っ越した。その地で彼は1931年に初等教育終了証書を取得した。そして、彼が敬意で満たされる学校の先生方のおかげで、初等証書取得のためにアンギアン高校に入学した際は、彼の勉強はある程度進んでいた。教師の一人M.ジュイリアール(M.Juilliard)は彼の才能を見抜き、美術学校の名門の一つであるパリのデュプティ・トゥアール通り(Rue Dupetit Thouars)に在る美術大学への入学を勧めた。父はその選択に特に喜ばなかったが、かと言って反対もせず入学手続きも自由にさせた。一度試験を落第し、1938年に入学した。そこには、リセが一緒だったロベール・ピコー(Robert Picault)もおり 、ジャン・デルバル(Jean−DERVAL)とも出会うこととなった。彼ら三人は、20年後にバロリスで共に活動することとなる。デュプティ・トゥアールでの五年間のうち、一年目は一般教科が中心となり、残りの四年間はアトリエを中心に過ごす。陶芸への興味を抱きはじめたにもかかわらず、カプロンは陶芸のドレ(Dollet)クラスを受講せず、ルネ・ガブリエル(Ren_ Gabriel) の指導するテキスタイルデコレーションのクラスと、ボボ(Bobot)の指導するクラスを受ける。今現在でもカプロンは恩師ルネ・ガブリエルその人と、彼の大量生産に関する理論に魅力を感じている。カプロンはバロリスでの初めてのアトリエを起こした時、その理論を実践したのであった。1943年、学位取得したカプロンは、レジスタンス活動をする、あるいは対独協力強制労働(STO)に参加した教師の代行授業を少しの間受け持った。だが、そこから抜け出すために、ロベール・ピコーが青少年センターのスタッフの仕事を引き受けた際に、一緒に志願した。その施設は、戦争で頼る者を失った若者を支援する機関だった。赤十字の障害者施設での初めての体験が感情的に悲惨なものだったので、日々の生活が非常に厳しいものだったにしても、それ以外のことは何でもカプロンには面白く感じた。カプロン はジャン・デルバルと共に、占領地と非占領地の境界線の北側にあるさまざまな施設の職員募集のビラ製作の仕事を担当した。そして、その後、カプロンはその展示も任された。それは実際のとろ、最小限の方法で、若者たちに彼らが就くことのできる職業について紹介する、という仕事だった。彼がランス(Reims)で行った展示は、やはりその時もジャン・デルバルと一緒に行ったのだが、全青少年センターの総運営責任者のデンツェル・ダルボア(Dentzel d’Albois) の目に止まり、ふたりは中央局に呼ばれ、青少年支援機関の憲章のデザインを依頼された。カプロンは、何度もくりかえし試みた結果、ついにSTOから解放され、トゥルーズ(Toulouse)まで引き返した。そこでは手工業に従事するための職業訓練の案内の展示企画を任され、彼はミニチュアの職人村を作るアイディアを思いつく。その村の家はすべて、建具師、ブロック職人、水道工などの露店なのだった。彼はパリでもその村を作ることを考えていた。しかし、パリは占領から解放され、青少年支援機関は消滅こそしなかったが、その使命を失った。モンモランシーに帰ると、ロベール・ピコーと再会し、彼と共に自分たちの職業の道を歩み始めた。

初期

多くの希望を胸に、ロベール・ピコーとロジェ・カプロンは共同で成功への一歩を踏み出す為の仕事を探した。
二人ともまだ陶芸家になることは考えて無かった。パリのカジノでショーの作曲を担当する音楽家から最初の仕事を請ける。音楽家は、レビューの美術セットのアイディア提供を依頼してきたのだった。そのレビューは、遠い国の自然な暮らしを彷彿させる各景から成り、それは同時にダンサーの肌を露出させる口実にもなっていた。ところが、話が実現化する段になって出資者から資金面での中止を言い渡された。次に、彼らのした仕事はモンモランシーの林の外れのナイトクラブの美術の仕事だった。その後、二人はグラフィックの経験を支えとして、ピコーの個人的な資金で、一枚のポスターを印刷した。2人はこのポスターが収入と成功を運んで来ると考えていた。彼らのデザインしたポスターには葡萄棚の下で酔っている人々が描かれ、「ここで勝利を祝して酒を飲む」
というコピーが表記されていた(1945年の戦時中のことなので)。彼らはパリ周辺の酒場やバーに貼らせてもらうように動いたが、あまり実り無く、ほとんどのポスターは、のちに彼らのクロッキー用紙となってしまった。
ここにきてピコーとカプロンは自分たちの将来について考えた。二人ともだいぶ前から陶芸に魅力を感じていたので、学友ジャン・デルバルがサン・アマン・アン・ピュイザイ(Saint-Amand-en-Puisaye)でピエール・ピガリオ(Pierre PICAGLIO)の陶芸工房で働いていることに興味をもち、彼に追随することにした。カプロンの父から陶芸の設備購入の資金援助を受け、彼らは陶芸家になる決心をした。カプロンの父は、デルバル一家をこの冒険に巻き込もうと試みたのだが、むなしく終わった。フランスにおける陶芸品生産拠点をざっと評価した結果、バロリスを活動の場として選んだ。地中海や、コートダジュールの独特の趣きや、いつも照りつける太陽や、さまざまな喜びは、サン・アマン・アン・ピュイザイの田舎っぽさをもってしても、ディゴアン(Digoin)の寒さや、デュルフィ(Dieulefit)の人里離れた感じに勝ったのだった。さらにこの地域に関して言い足すなら、(絵付けに重要な)エナメル製造会社ロスピエ(L’Hospied)がゴルフ・ジュアン(Golfe-Juan)に開業していたし、開戦直前にスザンヌ・ラミ(Suzanne Rami_)が開いたアトリエ・マドゥラ(Madoura) があることも知っていた。
1945年11月、まずピコーがジュアン・レ・パン(Juan-Les-pins)の青少年センターでデッサンの教師の職を求めに行った。このセンターでは活動のひとつとして、陶芸家養成講座があった。カプロンもその後、1946年2月ピコーの後を追い友に倣った。二人ともデッサンを教えながら、地中海の優しい環境の中、センターで熱心に陶芸の授業を受けた。カプロンがゴルフ・ジュアンの海岸でピカソに出会うのはその頃である。
彼らの陶芸の先生のマカリ(Macari)は調理用陶器産業の全盛期のバロリスのろくろ師で、ピコーはマカリのレッスンをすべて取った。カプロンは取手作りに熱を入れた。取手の立体感に変化をつけ、粘土をこねた。しかしふたりとも、土の焼き方や、エナメル付けに関しては、先生が初歩的な知識しかなかったので、自分たちで研究しなくてはならなかった。ある日、常識に反して、彼らは実験的にすべてのエナメル薬を楽しんで配合してみた。それらは別々に用いると、黄色、緑、錫の青になるのだが、すべて混ぜることによって驚くべき結果を手にした。
金属的な光沢を放つ素晴らしい黒色の作品となったのだ。それはジューヴ(Jouve)によって前年発表され、流行した陶器作品の雰囲気をもっていた。そこで、彼らはバロリスに自分たちのアトリエを設立することを決めた。それはヌーベル・ポスト通り(Rue de la Nouvelle-Poste)に位置し、 アトリエの名前のカリス(Callis)は、カプロンがギリシャ陶芸家の中の一人から名前を取ったのだった。その小さな陶芸工房には彼らはろくろと電気窯を備え付けたが、これらの設備は操るのに時間を要した。そして、片隅に小さな展示場も作った。そこから彼らの初めての作品販売が始まったのである。
最初に販売したのは、デザートセットで、黒くエナメル付けされたlastre陶器であった。アトリエには彼らの師匠、ルネ・ガブリエルも応援にきてくれた。
すぐに、卸売り業者のラ・ソクフラ(La Socfra)社が、この若い二人の陶芸家から多くの利益を引き出せることができると気がついた。ラ・ソクフラ社は、戦後大変需要が多かった小さな蝋燭立てをカリスに注文した。というのも、当時は電気の故障がまだ多かったからである。値段はバカバカしい程安く、アトリエが利益を上げるには不十分だったが、カプロンとコピーは陶芸をする喜びのためにこの仕事を請けた。ピコーがろくろを回し、カプロンは装飾を担当。蝋燭立てはミクロブ(Microbes)(訳注:ちびという意味)と名付けられ大量に製作された。完成作は歪んでいたり、不規則であったり、エナメルが剥げていたりした。アトリエの経営状況は厳しく、カプロンは経営存続の為に父への融資を願い出なければならなかった。彼らのアトリエでどんどん作られるいくつかの洗練された作品、そのほとんどにCallisのサインが入っているのだが、それらの作品は当時流行の大衆的な伝統や、芸術性に富むものであった。例えば、刻みタバコ入れ、祭壇用の花瓶、田舎風な食器セットなどが作られた。エナメル付けはまだあいまいな出来で、黒い艶のモデルがそうであったように、しばしば意図としない仕上がりになった。
1949年初め、ピコーは妻方の家族の資金援助を受け、より製造に没頭することを望み、カプロンにバロリスの工場であるル・フルナス(Le Fournas)の買収を持ちかける。しかしカプロンは再度父に援助を願いでる事は出来なかったので、やむなくピコーの申し出を辞退せざるをなかった。このことがあって、二人はとても強いつながりを持ち続けたままではあるが、その年に活動を分かつこととなった。今でもカプロンは、ピコーの計画と成功は素晴しいものだったと評価している。
そんなわけでカプロンは、ヌーベル・ポスト通りの小さなアトリエで、卸業者からの注文に答えるべく一人働き続けた。1949年9月、ジャン・デルバルに手を貸してくれるよう呼びかけ、再び彼と一緒に働くことになった。
1950年代は、デルバルはカプロンの代わりに、注文の品、すなわち靴型灰皿の、エナメル付け、装飾、焼きに専念した。それに対してカプロンはスキーで大きな事故に遭い、病床にふし、型押し作業に従事した。その同じ年に、彼は ジルベール・バランタン(Gibert VALENTIN) .に出会う。彼はカプロンの為に初めて成形型の導入を実現してくれた。それにより、卸業者の注文に対して、より容易に製造でき、利益につながる製造ができるようになった。またバランタンは、型への流し込みの技術もカプロンに伝授した。カプロンはその新技術に夢中になり、もともとピコーとデルバルにほとんどすべて任せていたろくろをまわす作業をやめた。まさにその時、その後何年にも渡ってカプロン作品の象徴的な形となる、最初のフォルムを完成させた。例えば、取手付きの花瓶や、双耳花瓶などである。木の枝、様式化した人物像、太陽や幾何学模様が、ほぼ均等に厚めのエナメルで覆われた、安定したフォルムの、プレートや花瓶やランプの足の表面に現れた。素地は全体的に黒色で、別の装飾部分を取り付けたり、筆で直接装飾を描いたりした。カプロンの長い経験の中で、インスピレーションの源となったものについては、彼は容易に思い出すことができる。陶器への興味を初めて湧き起こすこととなった決定的なきっかけは、戦争の直前にまで遡る。まだ美術大学の学生だった頃、彼はピコーと一緒にパリのギャラリーでぶらぶらしているときに、レ・カトル・ポティエ(Les Quatre-Potiers)の陶器に出会った。それは、当時一般的だった伝統にのっとったやり方で作られた作品とは対照をなす作品だった。それには、ルノーブル(Lenoble) やドゥクール(Decoeur)のような技術的な快挙もなければ、ビュトー( Buthaud)やマヨドン(Mayodon)のようなもったいぶった感じもない。レ・カトル・ポティエは控えめで色彩のある陶器を作り出していた。もちろん、エナメルの質は不完全で、急いで仕上げた様子もある。しかし、そこからはとても強い生きる喜びの印象を受けた。カプロンはレ・カトル・ポティエの釉薬の垂れや、時として強烈な色調や、はっきりとしたフォルムが好きだった。また、レ・カトル・ポティエが可愛らしい小さなテーブルを作ったり、暖炉の表面に装飾をする、というように、分野の障壁を取り除いてしまうことも、好ましいと考えていた。そして、その事を、カプロン自身が数年後に成形型を用いて作品を作ったり、家具や建築用陶器を作ったときに思い出した。レ・カトル・ポティエの他に、カプロンが大きな影響を受けたのは、ジューヴ(Jouve)、シャンボ(Chambost)、イノセンティ(Innocenti)、そして、もちろんピカソがいる。カプロンは、ジョルジュ・ジューヴの人間性や成功に心をとらわれたが、50年代初頭には、陶芸の展示会に協力出展して、ジューヴと友情を結んだ。カプロンがバロリスにたどり着いた時、まさにジューヴのように、イコンと、大衆的な伝統からインスピレーションを得た。ピコーと製造した、カリスのサインが入った作品がそのことを示している。が、同様に、ジューヴの影響がはっきりと出ている他の作品を見ても、そのことがわかるだろう。ポル・シャンボとは定期的な交流があり、シャンボは流し込みの技術を使うことをカプロンに確信させた。また、ジャック・イノセンティに関しては、カプロンは彼の早すぎる死をとても残念に思うのだが、人間を作品上に表現することを、決してやめてはならないとカプロンを励ました。ピカソからは、何よりもまず、作品を手早く作るということを学んだ。−「ピカソは1日に50枚のプレートを作っていたんだ」と、ピカソの仕事ぶりをカプロンは好んで語ったのだった。− また、表現にはパワーがあるということも学んだ。この表現のパワーは、「非常に少ない素材で、非常に少ない色と少ない道具を使って」も伝統的な陶器をひっくり返したのだった。さらに、2つの技術を習得しなくてはならないことも意識した。それは、パラフィンを使う技術と、墨汁を用いて作品に古色を施す技術である。カプロンの作品には、牡牛や、図像化した太陽や、象徴体系化された雄鶏、魅力的な女性の身体に対する愛着が見て取れる。それらのモチーフからひとつの主題体系を後に再び引き出すということはなかったにしても。またカプロンは、ピカソと同様に、プリミティブアートや古代ギリシャ美術に深い興味を抱いており、「陶器は、プリミティブアートや古代ギリシャ美術では、最も重要な表現形態である。」と考えていた。ピカソのようにカプロンは、このような美術的遺産からフォルムや装飾のアイディアをもらった。特に、カプロンの有名な双耳花瓶もそのひとつで、それは、ギリシャの花瓶や、エトルリアの骨壷をカプロンに思い起こさせるのである。
 

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