2012年3月28日水曜日

Louis Sognot



ルイ サグノ


柔らかな座り心地の椅子。
France 1950s

























2012年3月18日日曜日

Claude Vassal




クロード ヴァッサールのデスク









入荷したヴァッサールのデスクです。


















J.A. Motte




ジョセフ アンドレ モット


ミルクグラスの優しい灯りがまるでお月様の様。。。
キャビネットの上や、床に置いて使用します。




























Colette Gueden




コレット ギューデン


















Pierre Guariche



ピエール ガリッシュ











折り目の入った生地で張り替え済みのトノチェアーです。

















Shop in Paris!





50年代の家具が置かれた、パリにあるお店。

































2012年3月17日土曜日

Genet et Michon








ジュネ et ミション



































Pierre Paulin




ピエール ポラン



















もとは茶のビニールレザーが張ってあったポランの椅子、やっぱり張り替えた方が良いのではないかと思いまして先日綺麗になって戻って来ました。写真ではグレーっぽく見えますが茶系の色を選びました。雰囲気が良くてこの椅子にぴ〜ったりハマってます! 














Andre Monpoix






上から見たモンポワとガリッシュのランプ。このラウンジはパイプの曲線がとても美しいと思わせてくれます。シンプルの中にちょっとポイントを利かせたような良い味がある。狭い空間でもすっきりとした印象でモダンな雰囲気が際立ちます。フロアランプは洋書でも良く目にするガリッシュの作品。"バランス"という作名は、土台に乗っけられた球と下部の真鍮の球がバランスをとり角度調整をします。







Joseph Andre Motte






ジョセフ アンドレ モット




オリジナルのファブリックに真鍮色の脚。


R.J. Caillette



フランス50年代のモダニスト



日本ではあまり知られていませんが、カイエットはとても有名なデザイナーです。コレクターの間でカイエットと言えば "もちろん知ってるよ とても好きなデザイナーだ"と声が聞けます。友人であるマルセル ガスコワンと共に、インテリア雑誌 Art Manager 等へ定期的にインテリアをデコレートし掲載します。作品はグループ4-シャロンやステイネール社が主に家具を製作し、当時たくさんの家具を売る事に成功したデザイナー。個性的でモダンなフォルムに惹き付けられます。


入荷した椅子は鮮やかなブルーのオリジナルのファブリック。ストレッチの入った生地で、裏のボタンを外すとファブリックの取り外しが可能です。新しくファブリックを作って気分によって変えるなんて事が可能なんです。椅子の色が違うだけで部屋の印象はかなり違うだけに遊び心にわくわくします。





ロジェ カプロン





























カプロンの物語



Story of "Roger Capron Vol 1"


"ロジェ・カプロンと私"

アントワネット・フェイアレ



私は、ロジェ・カプロンの作品について何も知識のないまま彼と知り合いました。1986年3月のとある夕食会で、バロリスの陶芸家らと同席している時でした。その日私は、第十回国際陶芸美術コンクールの審査員を務めており、数百点の平凡な作品の中から、めったにない逸品を選び出すという、わくわくする、しかし責任の重い一日を終えた後でした。ビエンナーレの審査員をするのも、バロリスの陶芸家達と食事を共にするのも、初めてでした。食事の場でみんなはカプロンがどんな人物か説明してくれましたが、私にとっては、カプロンは一緒に話をして大笑いしあった人物としてまず記憶に残りました。それに、そう考えたのも、あながち間違いではなかったのです。
ドイツ人の審査員長が、私には味気なく感じられる面白みのないフォルムの、茶・灰色・黒などの寂しい色の陶器しか好まなかっただけに、会食は楽しいものでした。もっとも、私はパリジェンヌなので、(審査員長の好みの傾向に対して)そんなに驚きはしませんでしたけれど。というのも、1970〜1980年代での、ロワールより北方では、田舎風スタイルから逃れる事が出来ませんでした。つまり、都会の人が、オークのテーブルや、むき出しの梁や、ジュートの布製品などを使って家をしつらった戦後のインテリアスタイルと調和する、あまり手の加えられてない陶芸作品から、人々の好みは離れられなかったのです。この時代のことを現代の環境保護論者(エコロジスト)に思い出させるのはやめにしましょう!そんなことをすれば、きっとその頃の味気ないライフスタイルをよみがえらせてしまいますよ!
会食をつうじて、私は地中海の陶芸家はあけっぴろげで陽気なことに気が付きました。そして、再び彼らと出会い、彼らの作品を見つけ出そうと心に決めました。作品のいくつかに関しては、見つけるのは簡単でした。陶芸家自身が作品を持っていたからです。というのも、そのほとんどの場合、作品にはファンがつかなかったからです。その他の作品に関しては、例えばカプロンの作品は、見つけるのにもっと時間がかかりました。成功した陶芸家なので、作品が散らばっていたからです。私が初めて海近くのカンヌ駅(訳注:その外壁はカプロンの作品である)の外壁前を車で通り過ぎた時は、スピードを出していたので、何も気が付かずに通り過ぎました。だいぶ後になってから、招待されたデルバル宅で、カプロンがデルバル一家のために作ったタイルを楽しみながら見ることができました。これらのタイルは、まるで生きている人間のようでした。タイルは生きる喜びにあふれているようでした。寂しく、粗野なものが人々に好まれるという長い年月を生きのびていくには、こんなふうに人目から隠れていなくてはならなかったのでしょうか?流行とは、こんなものです…
バロリス美術館は、カプロンの芸術にはもうひとつの側面があるということを私に教えてくれました。つまり、より正式な、より「人に見せることを意識した」側面があるということを教えてくれたように思います。それは、ひとりの人物を表わすパネル作品についてです。その作品は、多面的な数々の小さなかけらから全体が成り、全面的に灰色のトーンをしています。別の審査会で、それはカプロンと同時代の陶芸家であるジャンジャック・プロロンジョー(Jean-Jacques Prolongeau)に関する博士号審査だったのですが、審査員長はこう説明したのです。
「1970年代には、公的機関からの注文には、作家は抽象的な作品を作らなくてはならなかったし、できれば、幾何学的で、あまり色彩のない作品を作らなくてはならなかった。」バロリス美術館にあるパネル作品は、多かれ少なかれこの説明の枠に入った作品です。ビエンナーレで受賞したこのパネル作品は、この時代の人々が期待する作品にあてはまります。それはつまり、カプロンが公的な芸術というものに魂を売ったということなのでしょうか?いえ、とんでもない!「芸術家の芸術」はすべて、その時代のことば、そしてその時代に生きる人々のことばを使いこなせるものです。そうしたことばを使いこなすことに成功すれば、自分の才能の厳正さにより、他の時代の人々にも好かれることでしょう。厳正さと才能。カプロンはこのふたつをありあまるほど備えています。そして、はじめから量産されることも売られることもないと決まっていたこの作品は、カプロンをいつもと全く違う分野にいざなうこととなりました。
そのパネル作品では、力強い人物が、まるでタイルから突然表れ出たかのように見え、それに対して色は、まるでそこに存在していないかのようで、他では見られない表現力があるのです。その他のカプロン作品 −テーブル、ゲリドン、ランプ、ピシェ、皿、花瓶、魚用皿、マザグラン(訳注:陶製で脚付きのコーヒーカップ)、花や鳥の装飾、チューリップ、水鳥、馬− は、私が発見してからまだ15年しかたっていません。作品を発見したときは、コレクターの人達は自分達が大好きなオブジェを目の前にして、私の真意を調べるような目で私を見るのでした。これらのオブジェは、もったいぶったところがなかったので、コレクター達は、他のコレクション作品と一緒に大切にしているとは、なかなか言い出せなかったのです。コレクターの中のひとりは私にこうも言いました。「あぁ、ここら辺のものは、マヌケなモノって呼んでますよ。」マヌケなモノ?私はびっくりして呆然としたままでした。どんな像だったかもう覚えていませんが、人物の立像で飾れた、ただ色だけが鮮やかで美しいそのピッシェが、私はこの上なく好きだったのです。当時まだ、ピエール・ストーデンメイヤー(Pierre staudenmeyer)はその著書「1950年代のフランスの陶器」を出版しておらず、 色の明るさはまだ市民権を獲得してなかったのです。その時点では、当然私はロジェ・カプロンの最近の作品をすでに知っていました。その作品は、もはや大きな手工業生産の果実ではなく、3人の小さな工房作品でした。その3人の誰も無視することはできない重要な役割がありました。空想の巨匠は着想を得て、粘土をこねます。その妻、ジャコットは色彩担当。そしてジャンポール・ボネ(Jean-Paul Bonnet)は、師匠のずっと以前からの協力者、作業のすべてに関わり、釜の温度が最も高くなる決定的瞬間に釜のふたを開けるという、恐ろしい特権を持っているのです。何故なら、今はもうカプロンは陶器を作っていないからです。彼が作っているのは、日本の楽焼からインスピレーションを得た、粘土を煙でいぶすという驚くべきテクニックを用いて作るものなのです。楽焼は、粘土を普通に形作り、それに普通に着色して釉薬をかけるのですが、釜の中の溶解が始まっているそのときに、釜のふたを開けてしまうのです。その結果、土は黒ずみ、きらめく艶をもったほんのかすかな繊細さを色に与えるのです。このテクニックの遠い源によって、かつて今までなかった程、地中海に対する愛着をカプロンが表現するようになったのかは、私にはわかりません。
平らに、あるいは丸彫りで表現されたカプロンの人物像は、変身をテーマに、それぞれほぼ同数のバリエーションがあります。それはシュールリアリズムに関連づけているのでしょうか?もしかしたらそうかもしれません。でも、私が思うには、カプロンの作品には、シュールリアリストのアンドレ・ブルトンやダリより、古代ローマの詩人オウィディウスが息づいているような気がします。それに古代文明には、人間と魚の身体を持つ人魚や、人間と鳥の身体を持つ人鳥がありましたし。カプロンの創作は、古代文明よりさらに進んでいます。彼は自分の作品の人物像を解体し、身体のひとつひとつのパーツが独立したまま、再構築します。その結果は驚くべきもの、と言うには控え目すぎるでしょう。でも、月桂樹の木に変えられてしまったギリシャ神話のダフネ自身、少々驚
いていたとは思いませんか?
かくして、ピエール・ストーデンメイヤーは、その著書を出版することによって、私達を幸せの世界へといざないます。そのことを本当に感謝してもいいと思います。幸せを好むということは、シンプルなことのように思えますが、実際はそうではありません。そこに到達するには、何かを乗り越えなくてはならないのです。その乗り越えるべき何かとは、スノビズム(上流気取りの俗物根性)、滑稽であることに対する不安、あるいは子供っぽく見られることに対する不安に通じるものなのです。下積みの時代ロジェ・カプロン、1920年9月4日、ヴァンセンヌ(Vincennes)生まれ。父は銀行の事務員だったが、キャリアの最期で銀行の代表となることができた。母は祖母と同じ様にべべ・ジュモー(Beb Jummeau)社の製造工場に勤めていた。彼女はそこで装飾担当者として、話題の人形の睫毛を筆で描く作業をしていた。彼らの出会いは第一次世界大戦中、いつも逃げ込む防空壕でのことだった。この父と母のもとで、ロジェは一人っ子として生まれた。1926年、カプロン一家はモンモランシー(Montmorency)南部、アンギアン・レ・バン(Enghien-Les-Bains)のそばに引っ越した。その地で彼は1931年に初等教育終了証書を取得した。そして、彼が敬意で満たされる学校の先生方のおかげで、初等証書取得のためにアンギアン高校に入学した際は、彼の勉強はある程度進んでいた。教師の一人M.ジュイリアール(M.Juilliard)は彼の才能を見抜き、美術学校の名門の一つであるパリのデュプティ・トゥアール通り(Rue Dupetit Thouars)に在る美術大学への入学を勧めた。父はその選択に特に喜ばなかったが、かと言って反対もせず入学手続きも自由にさせた。一度試験を落第し、1938年に入学した。そこには、リセが一緒だったロベール・ピコー(Robert Picault)もおり 、ジャン・デルバル(Jean−DERVAL)とも出会うこととなった。彼ら三人は、20年後にバロリスで共に活動することとなる。デュプティ・トゥアールでの五年間のうち、一年目は一般教科が中心となり、残りの四年間はアトリエを中心に過ごす。陶芸への興味を抱きはじめたにもかかわらず、カプロンは陶芸のドレ(Dollet)クラスを受講せず、ルネ・ガブリエル(Ren_ Gabriel) の指導するテキスタイルデコレーションのクラスと、ボボ(Bobot)の指導するクラスを受ける。今現在でもカプロンは恩師ルネ・ガブリエルその人と、彼の大量生産に関する理論に魅力を感じている。カプロンはバロリスでの初めてのアトリエを起こした時、その理論を実践したのであった。1943年、学位取得したカプロンは、レジスタンス活動をする、あるいは対独協力強制労働(STO)に参加した教師の代行授業を少しの間受け持った。だが、そこから抜け出すために、ロベール・ピコーが青少年センターのスタッフの仕事を引き受けた際に、一緒に志願した。その施設は、戦争で頼る者を失った若者を支援する機関だった。赤十字の障害者施設での初めての体験が感情的に悲惨なものだったので、日々の生活が非常に厳しいものだったにしても、それ以外のことは何でもカプロンには面白く感じた。カプロン はジャン・デルバルと共に、占領地と非占領地の境界線の北側にあるさまざまな施設の職員募集のビラ製作の仕事を担当した。そして、その後、カプロンはその展示も任された。それは実際のとろ、最小限の方法で、若者たちに彼らが就くことのできる職業について紹介する、という仕事だった。彼がランス(Reims)で行った展示は、やはりその時もジャン・デルバルと一緒に行ったのだが、全青少年センターの総運営責任者のデンツェル・ダルボア(Dentzel d’Albois) の目に止まり、ふたりは中央局に呼ばれ、青少年支援機関の憲章のデザインを依頼された。カプロンは、何度もくりかえし試みた結果、ついにSTOから解放され、トゥルーズ(Toulouse)まで引き返した。そこでは手工業に従事するための職業訓練の案内の展示企画を任され、彼はミニチュアの職人村を作るアイディアを思いつく。その村の家はすべて、建具師、ブロック職人、水道工などの露店なのだった。彼はパリでもその村を作ることを考えていた。しかし、パリは占領から解放され、青少年支援機関は消滅こそしなかったが、その使命を失った。モンモランシーに帰ると、ロベール・ピコーと再会し、彼と共に自分たちの職業の道を歩み始めた。

初期

多くの希望を胸に、ロベール・ピコーとロジェ・カプロンは共同で成功への一歩を踏み出す為の仕事を探した。
二人ともまだ陶芸家になることは考えて無かった。パリのカジノでショーの作曲を担当する音楽家から最初の仕事を請ける。音楽家は、レビューの美術セットのアイディア提供を依頼してきたのだった。そのレビューは、遠い国の自然な暮らしを彷彿させる各景から成り、それは同時にダンサーの肌を露出させる口実にもなっていた。ところが、話が実現化する段になって出資者から資金面での中止を言い渡された。次に、彼らのした仕事はモンモランシーの林の外れのナイトクラブの美術の仕事だった。その後、二人はグラフィックの経験を支えとして、ピコーの個人的な資金で、一枚のポスターを印刷した。2人はこのポスターが収入と成功を運んで来ると考えていた。彼らのデザインしたポスターには葡萄棚の下で酔っている人々が描かれ、「ここで勝利を祝して酒を飲む」
というコピーが表記されていた(1945年の戦時中のことなので)。彼らはパリ周辺の酒場やバーに貼らせてもらうように動いたが、あまり実り無く、ほとんどのポスターは、のちに彼らのクロッキー用紙となってしまった。
ここにきてピコーとカプロンは自分たちの将来について考えた。二人ともだいぶ前から陶芸に魅力を感じていたので、学友ジャン・デルバルがサン・アマン・アン・ピュイザイ(Saint-Amand-en-Puisaye)でピエール・ピガリオ(Pierre PICAGLIO)の陶芸工房で働いていることに興味をもち、彼に追随することにした。カプロンの父から陶芸の設備購入の資金援助を受け、彼らは陶芸家になる決心をした。カプロンの父は、デルバル一家をこの冒険に巻き込もうと試みたのだが、むなしく終わった。フランスにおける陶芸品生産拠点をざっと評価した結果、バロリスを活動の場として選んだ。地中海や、コートダジュールの独特の趣きや、いつも照りつける太陽や、さまざまな喜びは、サン・アマン・アン・ピュイザイの田舎っぽさをもってしても、ディゴアン(Digoin)の寒さや、デュルフィ(Dieulefit)の人里離れた感じに勝ったのだった。さらにこの地域に関して言い足すなら、(絵付けに重要な)エナメル製造会社ロスピエ(L’Hospied)がゴルフ・ジュアン(Golfe-Juan)に開業していたし、開戦直前にスザンヌ・ラミ(Suzanne Rami_)が開いたアトリエ・マドゥラ(Madoura) があることも知っていた。
1945年11月、まずピコーがジュアン・レ・パン(Juan-Les-pins)の青少年センターでデッサンの教師の職を求めに行った。このセンターでは活動のひとつとして、陶芸家養成講座があった。カプロンもその後、1946年2月ピコーの後を追い友に倣った。二人ともデッサンを教えながら、地中海の優しい環境の中、センターで熱心に陶芸の授業を受けた。カプロンがゴルフ・ジュアンの海岸でピカソに出会うのはその頃である。
彼らの陶芸の先生のマカリ(Macari)は調理用陶器産業の全盛期のバロリスのろくろ師で、ピコーはマカリのレッスンをすべて取った。カプロンは取手作りに熱を入れた。取手の立体感に変化をつけ、粘土をこねた。しかしふたりとも、土の焼き方や、エナメル付けに関しては、先生が初歩的な知識しかなかったので、自分たちで研究しなくてはならなかった。ある日、常識に反して、彼らは実験的にすべてのエナメル薬を楽しんで配合してみた。それらは別々に用いると、黄色、緑、錫の青になるのだが、すべて混ぜることによって驚くべき結果を手にした。
金属的な光沢を放つ素晴らしい黒色の作品となったのだ。それはジューヴ(Jouve)によって前年発表され、流行した陶器作品の雰囲気をもっていた。そこで、彼らはバロリスに自分たちのアトリエを設立することを決めた。それはヌーベル・ポスト通り(Rue de la Nouvelle-Poste)に位置し、 アトリエの名前のカリス(Callis)は、カプロンがギリシャ陶芸家の中の一人から名前を取ったのだった。その小さな陶芸工房には彼らはろくろと電気窯を備え付けたが、これらの設備は操るのに時間を要した。そして、片隅に小さな展示場も作った。そこから彼らの初めての作品販売が始まったのである。
最初に販売したのは、デザートセットで、黒くエナメル付けされたlastre陶器であった。アトリエには彼らの師匠、ルネ・ガブリエルも応援にきてくれた。
すぐに、卸売り業者のラ・ソクフラ(La Socfra)社が、この若い二人の陶芸家から多くの利益を引き出せることができると気がついた。ラ・ソクフラ社は、戦後大変需要が多かった小さな蝋燭立てをカリスに注文した。というのも、当時は電気の故障がまだ多かったからである。値段はバカバカしい程安く、アトリエが利益を上げるには不十分だったが、カプロンとコピーは陶芸をする喜びのためにこの仕事を請けた。ピコーがろくろを回し、カプロンは装飾を担当。蝋燭立てはミクロブ(Microbes)(訳注:ちびという意味)と名付けられ大量に製作された。完成作は歪んでいたり、不規則であったり、エナメルが剥げていたりした。アトリエの経営状況は厳しく、カプロンは経営存続の為に父への融資を願い出なければならなかった。彼らのアトリエでどんどん作られるいくつかの洗練された作品、そのほとんどにCallisのサインが入っているのだが、それらの作品は当時流行の大衆的な伝統や、芸術性に富むものであった。例えば、刻みタバコ入れ、祭壇用の花瓶、田舎風な食器セットなどが作られた。エナメル付けはまだあいまいな出来で、黒い艶のモデルがそうであったように、しばしば意図としない仕上がりになった。
1949年初め、ピコーは妻方の家族の資金援助を受け、より製造に没頭することを望み、カプロンにバロリスの工場であるル・フルナス(Le Fournas)の買収を持ちかける。しかしカプロンは再度父に援助を願いでる事は出来なかったので、やむなくピコーの申し出を辞退せざるをなかった。このことがあって、二人はとても強いつながりを持ち続けたままではあるが、その年に活動を分かつこととなった。今でもカプロンは、ピコーの計画と成功は素晴しいものだったと評価している。
そんなわけでカプロンは、ヌーベル・ポスト通りの小さなアトリエで、卸業者からの注文に答えるべく一人働き続けた。1949年9月、ジャン・デルバルに手を貸してくれるよう呼びかけ、再び彼と一緒に働くことになった。
1950年代は、デルバルはカプロンの代わりに、注文の品、すなわち靴型灰皿の、エナメル付け、装飾、焼きに専念した。それに対してカプロンはスキーで大きな事故に遭い、病床にふし、型押し作業に従事した。その同じ年に、彼は ジルベール・バランタン(Gibert VALENTIN) .に出会う。彼はカプロンの為に初めて成形型の導入を実現してくれた。それにより、卸業者の注文に対して、より容易に製造でき、利益につながる製造ができるようになった。またバランタンは、型への流し込みの技術もカプロンに伝授した。カプロンはその新技術に夢中になり、もともとピコーとデルバルにほとんどすべて任せていたろくろをまわす作業をやめた。まさにその時、その後何年にも渡ってカプロン作品の象徴的な形となる、最初のフォルムを完成させた。例えば、取手付きの花瓶や、双耳花瓶などである。木の枝、様式化した人物像、太陽や幾何学模様が、ほぼ均等に厚めのエナメルで覆われた、安定したフォルムの、プレートや花瓶やランプの足の表面に現れた。素地は全体的に黒色で、別の装飾部分を取り付けたり、筆で直接装飾を描いたりした。カプロンの長い経験の中で、インスピレーションの源となったものについては、彼は容易に思い出すことができる。陶器への興味を初めて湧き起こすこととなった決定的なきっかけは、戦争の直前にまで遡る。まだ美術大学の学生だった頃、彼はピコーと一緒にパリのギャラリーでぶらぶらしているときに、レ・カトル・ポティエ(Les Quatre-Potiers)の陶器に出会った。それは、当時一般的だった伝統にのっとったやり方で作られた作品とは対照をなす作品だった。それには、ルノーブル(Lenoble) やドゥクール(Decoeur)のような技術的な快挙もなければ、ビュトー( Buthaud)やマヨドン(Mayodon)のようなもったいぶった感じもない。レ・カトル・ポティエは控えめで色彩のある陶器を作り出していた。もちろん、エナメルの質は不完全で、急いで仕上げた様子もある。しかし、そこからはとても強い生きる喜びの印象を受けた。カプロンはレ・カトル・ポティエの釉薬の垂れや、時として強烈な色調や、はっきりとしたフォルムが好きだった。また、レ・カトル・ポティエが可愛らしい小さなテーブルを作ったり、暖炉の表面に装飾をする、というように、分野の障壁を取り除いてしまうことも、好ましいと考えていた。そして、その事を、カプロン自身が数年後に成形型を用いて作品を作ったり、家具や建築用陶器を作ったときに思い出した。レ・カトル・ポティエの他に、カプロンが大きな影響を受けたのは、ジューヴ(Jouve)、シャンボ(Chambost)、イノセンティ(Innocenti)、そして、もちろんピカソがいる。カプロンは、ジョルジュ・ジューヴの人間性や成功に心をとらわれたが、50年代初頭には、陶芸の展示会に協力出展して、ジューヴと友情を結んだ。カプロンがバロリスにたどり着いた時、まさにジューヴのように、イコンと、大衆的な伝統からインスピレーションを得た。ピコーと製造した、カリスのサインが入った作品がそのことを示している。が、同様に、ジューヴの影響がはっきりと出ている他の作品を見ても、そのことがわかるだろう。ポル・シャンボとは定期的な交流があり、シャンボは流し込みの技術を使うことをカプロンに確信させた。また、ジャック・イノセンティに関しては、カプロンは彼の早すぎる死をとても残念に思うのだが、人間を作品上に表現することを、決してやめてはならないとカプロンを励ました。ピカソからは、何よりもまず、作品を手早く作るということを学んだ。−「ピカソは1日に50枚のプレートを作っていたんだ」と、ピカソの仕事ぶりをカプロンは好んで語ったのだった。− また、表現にはパワーがあるということも学んだ。この表現のパワーは、「非常に少ない素材で、非常に少ない色と少ない道具を使って」も伝統的な陶器をひっくり返したのだった。さらに、2つの技術を習得しなくてはならないことも意識した。それは、パラフィンを使う技術と、墨汁を用いて作品に古色を施す技術である。カプロンの作品には、牡牛や、図像化した太陽や、象徴体系化された雄鶏、魅力的な女性の身体に対する愛着が見て取れる。それらのモチーフからひとつの主題体系を後に再び引き出すということはなかったにしても。またカプロンは、ピカソと同様に、プリミティブアートや古代ギリシャ美術に深い興味を抱いており、「陶器は、プリミティブアートや古代ギリシャ美術では、最も重要な表現形態である。」と考えていた。ピカソのようにカプロンは、このような美術的遺産からフォルムや装飾のアイディアをもらった。特に、カプロンの有名な双耳花瓶もそのひとつで、それは、ギリシャの花瓶や、エトルリアの骨壷をカプロンに思い起こさせるのである。
 

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カプロンの物語



Story of "Roger Capron Vol 2"

バロリスの EXISTENTIALISSES



バロリスには、カプロンとピコー、そこにデルバルとポルタニエ(Portanier)が加わり、その後コスタンダ(Kostanda)やバランタン(Valentin)が戦争直後に加わります。アンドレ・ボー(Andr_ Baud)とスザンヌ・ラミエもバロリスに移住していました。スザンヌ・ラミエにいたっては、ピカソに陶器への興味をもってもらうことはバロリスの小さな村にとって大きな利益をもたらすだろう、という考えを持つ以前にバロリスに定着していた。とても長い間続いた料理用陶器生産の伝統が衰退に向かっていたバロリスにこれらの陶芸家たちが非常に用意周到にやってきたのです。
これらの移住者は、20世紀の初頭にイタリアより労働者達が移り住んできた時のような農民ではなく大都会の都会人、また彼らはクレマン・マシエ(Cl_ment Massier)が言うところの「陶芸家」(セラミスト ダール)ではなかった。彼らは、美術大学を卒業した「芸術家」達でした。つまり現代絵画や現代彫刻の実験的な試みを楽々とこなす者達だったのです。彼らの作るものは、地方の伝統工芸の様に実用的なものではない。彼らは家庭の主婦向けの物を作らない代わりに、当時コートダジュール沿いに広く住み着いていた数多くのフランス流アール・ド・ビーブル(生きる作法)の愛好者達向けの作品を発表するのである。彼らは快楽主義で、顧客のアール・ド・ビーブル愛好者達と同様に、海や山でレジャーを楽しみ、パーティーを開きます。そして時として、「キリギリスというよりは蟻」的なライフスタイルの小さな村の住民達にショックを与えてしまう。住民達はパリの新聞の大見出しでサンジェルマンデプレの新文化人達をそう呼んだように、これらの新顔をexistentialissesと読んだ。(訳注:exsitentialistesのもじり。実存主義もどきの意味か?)
1948年にピカソがバロリスにアトリエを構えると、偉大な画家の名声と画家のもとに訪れる客達の名声は、バロリスの保守主義を現代陶器に対する絶対的な熱狂に変えていきます。バロリスの小さな村の陶芸家達は皆、新しい作品の創作を試み、さまざまな形でそれぞれが見事な結果を生んだ。そして多くのアトリエが、アトリエ・マドゥラのように成功したいと考えバロリスで陶器の創作をしてもらおうといくらか名のとおった芸術家を呼び寄せようとしました。芸術家達が集まって開いていたパーティーはその土地の祭りに格上げされ、バロリスの小さな村役場では豪華な結婚式が行われるようになった。そしてピカソに敬意を表して記念の闘牛も開催された。N_roliumの展覧会はだんだん大規模になり観客数も増大しました。1946年に初めて開催されたときは地方イベントでしかなかったのに、1956年には国家的スケールの大ニュースになり、パリマッチのような雑誌にも記事が掲載されます。



アトリエの発展


1952年、十分経験を積んだカプロンは、ロベール・ピコーの例の倣い、卸売り業者と取引をするのをやめる決断をする。息子が自ら選んだ仕事の可能性を見定めたカプロンの父は、廃用にされた調理用陶器工場を息子に与えます。その工場は広々としていたが荒れ果ててました。投資金額は莫大ではなかったが、カプロンに負担は大きく年齢も30歳になり、採算をとらなくてはならないと考えた。まず最初にろくろ職人フェリックス・ラギトラ(Felix Laguitola) を雇い入れ、その直後、二人の人間が加わります。1953年の初めには小工場には七人が働いていた。その年にバロリスにジャコット・ユバン(Jacotte HUBIN)がナントから母親に連れられてやって来ました。
美術大学を卒業したての彼女が実習生として志願してきたのである。カプロンは今だから告白するのだが、彼女の履歴書など全く見ず、その日彼の目の前に現れた綺麗な女性の日に焼けた脚にみとれていた。
1955年、カプロンはジャコットと再婚します。彼女の両親は、娘が「芸術家」のところに嫁ぐのを心配して3年間様子をみる期間を経たのだが、結婚式はサントロペスで行われ大変思い出深いものだった。ハネムーンはエクサンプロバンスに行き、彼の友人ジョルジュ・ジューヴ宅を訪問しました。
カプロンはいくつかの型に限定して作品を製作。ランプの脚、冷菓用セット、花瓶などが生産されます。この中のいくつかは、例えば「パジャマ」と名付けられた縦縞柄の作品などは定番商品となった。これらの作品は工場内のショップで通常販売され、1955年ビオ(BIOT)にオープンしたブティックにも置かれました。特に1953年以降は、パリの化学会館で開催されるフランス陶芸会議所主催の見本市にも出展して、定期的な販売を図ります。この見本市は年に2回開かれるのだが、1月の見本市で注文を請けた商品は春のイースター祭に出荷されなくてはならず、9月に開かれる見本市の分はクリスマスに出荷されなくてはならない。このようにしてカプロンは、ギフト商品、およびその時期に合ったしかるべきテーブルウェアを供給する構造を開発したのだった。実際、1950年代には、一定規模以上の都市には、一軒またはそれ以上の陶器専門店やテーブルウェア専門店がありました。人々がブランドに集中することはまだなく、徐々に生まれ出る大規模な流通網は食料品に限られ、いくつもある陶芸の見本市は後になってそれぞれ美術作品展となっていったのです。それらの見本市を通して、これら専門店のオーナー達は独占販売権や、納品期限や新商品入荷の期限の保証を獲得しょうとやっきになった。この流れのために注文で身動きがとれなくなっていたカプロンは、工場の生産計画を整えることにしました。そしてそれ以来、各作品はデザインキャンペーンにのっとって型取りされたり色づけされるようになった。それは、釉薬職人達が、「敷石」や「縞模様」シリーズを様々な型で次々に生産するのだが作品にはまずサインを入れ、次に納品月を示す一文字と、オーダー番号を入れる。そうしたことで、作品を買ったクライエントを特定でき、キャンペーンが終わる前に再注文を請けることができるわけだ。また、カプロンは生産スピードを速めるためにパラフィンの技術を使い、作品のエナメル地は漬け込みで行う。 −ほとんどの場合、この時期以降は白いエナメル地となる—かくしてカプロンは、その時代から感じ取ったことを自分なりの考えに置き換えることで、どんどん増える注文にも答えることができるようになり、(賢くもデザインキャンペーンを採用することにより)毎年デザインを一新することができるようになる。可能な限り広く注文を供給する必要性を確信し、彼は立体の上に模様を型押したり、型を使って複数の立体を作るなど色々な技術を実験的に使ってみた。1957年、工場は40人の労働者を抱え、外国からの注文もくるようになります。ヨーロッパのバイヤーだけでなく、ニューヨークの高級店、サックス・フィフス・アベニューからの定期的な注文もあった。この店のために、カプロンはあらゆる種類の酒瓶の開発までしました。パリの大手デパートも黙ってはいない。例えば、ギャラリーラファイエットはバイヤー達を窯出しの機会に送り込み、もっとも完成度の高い作品を選び買い付けていた。1957年頃から類似品が市場に出回る様になる。特に、当時エットーレ・ソトゥサス(Ettore SOTTSASS)の陶芸を作っていたイタリアのビトッシ(BITOSSI)社は、カプロン作品のフォルムや色調や技術を模倣した。
この活気に満ち、実りの多い時代にもかかわらず、カプロンは自分にとってもっと重要な、そして商業的でない展覧会に出展できるような、より個人的な作品づくりを発展させることができなかったことを悔やんでいる。1954年、ミラノのトリエンナーレでは金賞を、1955年、カンヌでのヨーロッパ陶器国際展覧会では銀賞を、1958年、ブリュッセルでの建築用陶器展覧会ではまたも金メダルを獲得した。カンヌ駅の壁面作品は、同時代に彼が行った芸術的探求の一例である。
カプロンはなんでもできる芸術家だったので、自分の作品の広告ツールまでもデザインした。活版印刷と文字デザインの技術をを使用し、彼は50年代の画風を完璧にものにしていたのです。その結果、カタログの表紙は、ソール・バス(Saul BASS)映画のクレジットタイトルやポスターを彷彿させるものとなった。また、ネガ・ポジのテクニックは、その時代の雑誌の飾り頭文字を思い起こさせた。新年のカードはユーモアたっぷりに、家庭用器具製造業の見本市の広告を思わせるようなデザインでした。
カプロンの友人となったピカソの個性は、カプロンに強い影響を与え続け、カプロンは、師であるピカソと共に古代ギリシャ陶器の特徴を強く示すスタイルを実現した。カプロンは、ひとつの物語を皿の上で語るという空間性を巧みに操ることで、ギリシャ神話の数々の場面をテーマに取り入れます。
オセアニア文化からは、入れ墨の幾何学スタイルと、儀式の際に用いるオブジェの装飾法を借り、いくつかの花瓶の白いエナメル地の上にそれを施した。
アフリカ美術にはそれほど引き込まれなかったものの、エナメルを施したり、墨汁で古色を出した驚くべきマスクシリーズの題材や、傷をつけて装飾するスタイルの花瓶は、アフリカ美術からそのアイディアを引き出したのである。装飾パネル様のタイル製作を手がけるようになって直ぐエナメル仕上げの大きさと色の違う同じモチーフを連続して取り入れたCAPRONはタイルを天板に施したサイドテーブルなど小さめの家具製作を始めます。リビング用のサイドテーブル、ガーデンテーブル同様に比較的小さめの装飾パネルも製作し始める。1958年Canneの海辺に有る駅の300㎡以上の巨大なフレスコ画も手がける事に。1957年フレスコ画の準備をしている時に彼は言った。「陶芸作家の作品には場所を埋める物だけじゃない。「場所を作る物だって有る」この作品の成功によりセラミックにおける新しい出発点を与えてくれた。CAPRONは少しずつ花瓶等の生産ラインを落として、デパートの贈答用の展開も減らします。業者に卸すのは極端に減らした。CAPRON自身の一般顧客、多くは地方の医者の奥さん等上客は残して。それにより経営上のキャパはとても下がった。しかし、62−63年建築方面でとても大量なまとまった注文が有り問題は無かった。Bibelots※ホテル 
CAPRONは新しい市場を見つけない限り会社の成長は有り得ないと理解していました。建築方面の可能性を追求していくのは大変気に入っていたし、店舗販売には企業の大きな未来など期待ができなかった。だから色々な組み合わせの効くモチーフのタイルを作り出した。1959年、タイル「NAVETTE」が生まれます。Plan春eは1965年、Hebier Provenceは1963年、Garigneは1971年に発表する。この時代のCAPRONのアトリエのカタログには、25種類以上のタイルのモデルが載っていた。60年代に入り、パンの屋の店先、上流階級の内装、この時代の受注は数え切れない。多くのバロリスの陶芸家はカプロンの見本用の製作に参加し始める。この頃Jean−Dervalもカプロンとコラボレーションをして作品を発表していました。1968年、Saint−Tropez のByblosホテルの作品はカプロンの会社をすさぶった。
その時使った素材Le Gr峻「_器」にエナメル付けしたものを中庭のダンスホールに使用。バロリスのたった一人のLe Gr峻のスペシャリスト、Alexandre KOSTANDに相談した。この素材は硬く、光り、多孔性陶器(マジョリカ陶器など)と比べても大変丈夫。この素材に引かれていく。全面的にセラミック建築に移行していきます。会社も再構成しなおし、彼は陶芸美術展示会の参加を決定的に止めます。1965年、製作は建材が中心になり1969年より家具見本市に参加。建築装飾に電撃的な成功を遂げた。Louis CARRE、Parisの大手のタイル卸業者はCAPRONに取引を提案してた。そして彼等と一緒に配給網を開発していったのです。CAPRONの工場では注文を十分に捌ききれなかったので、より多くの人を使い工場を大きくする方向に動いていった。1973年、彼は150人の労働者を使い、7人の代表と7部門を作り上げた。同年、以前の卸業者の沢山の要望に答える為にLe Gr峻を素材に以前のようなランプの足やタバコ入れ、古いテーマの太陽も生産を再開。
CAPRONは本当の意味で企業の代表になっていった。市場を考え、目標に向かって投資を行った。バロリスの雇用開発も行った。シンポジウムに参加したり、パートナー会社の会議にも出席した。顧客のための新作の展示会を年に二回行った。バロリスで盛大な祭りも行った。反対に、建材展示会の展示スタンドはそこまで盛り上がる事は無かったのだった。進んだ商業テクニックに対して、CAPRONは長く続く販売方法にとても自信を持っていた。彼自身が築いた顧客業者には独占権を与えます。1974年、オイルショック後、全ての部署に製造サイクルの短縮化の要請をした。同じ頃、イタリアの石材メーカーが世界の外壁市場に手強い攻撃を仕掛けてきます。時を同じくしてバロリスの陶芸団体の一つがCAPRONの会社よりも安値でGarigneの類似品をCAPRONの息のかかってない業者に販売を仕掛けます。カプロンは直ぐに類似品製造に対して法的に罰した。しかし、既に遅かった。※※競合会社や類似品の攻撃にCAPRONの会社は傾き始める。その頃、Louis CARREとも距離を置くようになる。1982年の春、CAPRONは支払停止の申し立てをせざるえなかった。工場は空になった。機械も在庫も連続的な盗難、略奪が続いた。作り上げた物が消滅していく。CAPRONはただ一人巨大な工場の中に自分を見つける。それでもまだ少しながら続く注文を彼一人ではとても引き受ける事は出来なかった。1982年の終わり。彼は作品※の引用を強制させられる。昨日のパートナーLouis CARREに経営困難の為、ブランド名の版権、製造ノウハウを受け渡さざるえなくなる。



カプロン 60歳、ゼロからの再スタート


60年代、建築に打ち込む為に陶芸としての作品作りをやめていた。それにより「Navette」や「Plan春e」見られる抽象的なジオメトリックな作風を完成することができた。オプティカルアート「錯視効果を強調した作品」棒状のタイルを※※連続して並べることによって一つの大きなモチーフになる。
1983年Louis Carr獅ヘはCAPRON に自分の会社Caroubeで中心となって製作を続けることを提案します。よってCAPRON−Coroubeと社名を変更します。社員は5人、Jacotteはそこの部長に就任。1959年、Jean-Paulも戻ってきた。彼はデパート向けに時計の文字盤部分や陶器製のカレンダーなどを製作した。そしてCAPRONは与えられたポストにも参加しなかった。むしろ相談役の様な事をしていた。Louis側はCAPRONにもう一度Louisの所有するCAPRONブランドのタイルの大量製造を願っていたが、CAPRONはLouisの要望を頑固に断っていた。そのうち80年代、CAPRONもLouisの説得に動かされ二度と作らないと決めていたタイルのデザインを開始します。しかしそんな中、今度はCarr獅ノの経営難の順番がやって来る。結果、La Soci師e Im師al によって吸収されてしまうことに。Louis Carr獅ヘは会社を去っていく。CAPRONはまたもや自分の名前であるブランド名の版権を取り戻す事が出来なかった。※※1985年イタリア企業Marazzi-Sassuolo ※※著作権の圧量が有り、CAPRONは活動は一点物だけの製作だけと制限されてしまう。反対に妻Jacotteは CAPRON−Coroubeを盛り上げ続けていた。CAPRONは磁器の上に絵付けする実験を重ねていた。販売化はされなかったがテーブルサービス用の作品を産み出していた。そして、以前から望んでいた大型家具の製作も実現。箱物の家具やイタリア式の机も有った。 ※ピカソを引用して。画家には収集するコレクターが居る。自分で描いた絵は他人の家に飾りたい - だから私は違う事を始める。※象牙の象嵌、石の代わりに白く細い陶磁器を切り抜き際立たせる為に青や金の色をつかう。※家具は家族の友人の家具職人によって木を黒く塗られて実現化した。
1989年の終り、息子Philippeの進めによって蒸された土を使って作品を作る日本の技術「楽焼」の実験を始める。最初の実験で決心を決めていた。そして楽焼の窯を素早く手に入れ装飾パネルを製作した。ほとんどの彼の作品をMarazzi社のオーナーが購入しました。その人物とは大変良い関係が保たれていたのです。オーナーは彼に上客を沢山紹介してくれました。同時期、CAPRONは70年代にBologneで出会ったDiDonatoと結び直す。彼はイタリアの陶芸家でミラノ、ローマ、パリにFraneseと言うショールームギャラリーを運営していた。ロマン時代ナポリの16~17世紀のタイルを専門としていた。DidonatoにはCAPRONの新しい試みをとても高く評価していて良いプロモーションになると考えていたのです。1991年、そこでCAPRONにプロモーションを目的とした新作の個展を提案します。個展とは口実で世間にCAPRONの認知度を上げてもらうのが狙いだった。しかし版権の問題等が残っていてビジネスとしては成立しない為、実現にはこぎつけなかった。それ以後CAPRONは方向転換をする事に。※芸術的な普及の売り出し 同様に娘Fr仕屍iqueがバロリスのSassui−Miliciギャラリーで個展を開いて新しい経験の第一歩を踏み出します。古い顧客の一人Reinholdi Harsch、彼は熱狂的なCAPRONの作品のファン。
彼はドイツのHeingen.Breme,Stuttgart,Montabaur-vestewald,そしてKircheinの地方美術館での個展を催してくれた。CambridgeはカナダのJuliance Freyギャラリーに作品を紹介します。翌年1988年、ニューヨークのギャラリーHammerにEtienne Sassi とのコラボ作品を展示。※※2000年、彼は初めて自分自身で個展を開いた。
この頃50年代が新しい物として最近のブームとなっていました。
CAPRONは徐々に丸みの有る物をデザインする様になる。全ての装飾から開放され少しずつ彫刻的作品に専念していく様になり、今まで頭の中で止まっていた(女性像、動物、HenriMoore.※Victor Bruner)テーマを具現化し始める。彼は時には記念的な作品も作った。楽焼独特のきらめくエナメルの音色を調和させたミニチュアなども製作した。彼の宇宙はそれくらい混合に占領され、彼の作品は人間とも動物とも思えない作品が多い。※現在彼のアトリエは一番初めに工場を開いた県に位置する。地元は大分発展していた。そしていつも誠実なJean-PaulとJacotte、時々訪れる研修生らによって活気あるアトリエとなる。
CAPRONはデッサンを作成して手捻りで成型し、殆どの場合Jacotteがエナメルをかけるのに対してJean-Paulは焼き加減を担当する。

80歳を過ぎても同じ様に再び成功を探しつづける美術の天才は作品を造り続けています。



個展暦


1948年 Vallauris N屍olium 2年に一度開かれるコンクール1948年から1962年参加。
1954年 Triennale de Milan ミラノで3年に一度開かれるコンクール金賞受賞
1955年 第一回ヨーロッパ国際陶芸展 カンヌ  銀賞受賞
建築セラミック ブリュッセル 金賞受賞           
国際陶芸展 パリ
1966年 Vallauris N屍olium
第一回国際陶芸美術コンクール バロリス 文化省特別賞  受賞
1970年 第二回国際陶芸美術コンクール バロリス 最優秀賞、バロリス市特別賞 受賞
第三回国際陶芸美術コンクール バロリス 特別枠出品
1974年 第四回国際陶芸美術コンクール バロリス 特別枠出品
1976年 第五回国際陶芸美術コンクール バロリス 特別枠出品
第六回国際陶芸美術コンクール バロリス 特別枠出品
第七回国際陶芸美術コンクール バロリス 建築部門特別賞受賞
1984年 個展 1984年〜1992年 France バロリス
ドイツ Zuffenhansen,Heinigen,Breme
イタリア Piacenza
1991年 Farenese ギャラリー ミラノ
1993年 Sassi-Milici ギャラリー バロリス
1994年 Etienne Sassi ギャラリー パリ
バロリス美術展 ドイツ Heinigen,Breme、Stuttgart
バロリス美術展 フランス国内 ドイツ Montabaur,Vesterwald
             
イタリア Piacenza Zublin-Haus ギャラリー
国際陶芸美術コンクール バロリス 公認作品出点
Fur Gegemstandlische kunstギャラリーKirschein Juline ギャラリー Frey Cambridgeギャラリー(カナダ)Hammerギャラリー ニューヨーク
Gureridonギャラリー ニューヨーク
Neouギャラリー フランス人陶芸家50年代 Paris
バロリス スタイルの誕生展
Sassi-Milici ギャラリー バロリス
Hamemer ニューヨーク






Pol Chambost






ポル シャンボスト





























Pierre Paulin


ピエール ポラン






今や超セレブなデザイナー ピエール ポラン。
彼の最初の作品は50年にトネ社から発表され、
ムーブル テヴェ社とステイネール社からも製作されています。
写真はポランがアーティフォート社の60年の作品"グローブ F422"に座り、自信のトネ社の椅子55年を掲げているものです。

下の写真 小振りな印象のラウンジタイプは、狭い空間でもスッキリとした実用的な椅子。
最初に入荷したのがこのポランのラウンジでとても印象深く可愛い椅子です。


トネ社の"CM190" 1959s





















Mon Oncle



Mon Oncle 日本でもファンがとても多いフランスの映画監督 "Jacques Tati" 映画の中で "ムッシュ ユロ" 祖父さんを演じるタチが、 モダンな住宅を舞台に繰り広げられるほのぼのとしたコメディー映画です。 タチの一貫した役作りがユロという人物を作り上げ、ユロ(祖父さん)の おっちょこちょいで憎めないキャラクターが魅力になっています。










そしてこの"Mon Oncle(僕の祖父さん)"の住宅のインテリアに登場するのが、
Pol Chambost(ポル シャンボスト)の陶器だったんです。
シャンボストはGeorges Jouve(ジューブ)やRuelland(リュエラン)等
50年代を代表するフランスの陶芸家。
ジューブの作品と共に展覧会で多く紹介され、
パリでは回顧展が開催される等より注目されている陶芸家です。









Les Decorateurs des annees 50



毎日見ているこの洋書は、だんだんボロ〜くなってかなり味出てます。一度も見ない日はありません。変わったフォルムや鮮やかな色使いがフランスの空気に包まれた50年代の魅力を伝えてくれます。
デザイナーをカテゴリーに別けて紹介しています。



Jacques Adnet/Mathieu Mategot/Jean Royere/Rane Gabriel/Marcel Gascoin/Roger Landault/Charlotte Perriand/Louis Sognot/Rene-Jean Caillette/Genevieve Dangle. Christian Defrance/Pierre Guariche/Andre Monpoix/Joseph-Andre Motte/Pierre Paulin/Alain Richard and more....








2012年3月13日火曜日

music







if I feel like it music








February 14, 2014

"Valentine of snow" 








October 31, 2013

"Autumn Deepens" 







July 3, 2013

"The summer is in" 












May 18, 2013







May 5, 2013








April 1, 2013













March 13, 2013

She & Him New Song!











February 8, 2013






















Music is changed by 10~ days.